2005年09月05日

承平天慶の乱〜武家の確立@平将門の乱〜

久々の日本史です。
最近は何となく生物学をする気分になれず、本ばっかり読んでいます。まぁよくあることです。そこで、久々に日本史のことでも書こうかなぁと思いまして、昔のノート(と言ってもPC内ですけど)を取り出して、文章化しました(ノートはかなり簡略化されているので)。

ちょっと長いですが、興味がある方は読んでみてください。一応、“私の習った教官の説”で、これが主流かどうかは極めて怪しいのですが。

今回は平家。

平家の主流派となった桓武平氏は、平安京へ遷都した桓武天皇の子孫にあたります。
9世紀後半、桓武天皇の曾孫である高望王が平の姓を受けて混乱していた関東へ下ります。その当時、関東は朝廷の力のあまり及ばない無法地帯・戦闘地域でした。様々な武装勢力が縄張り争いをしており、武装勢力同士の戦闘が繰り返され、農民からの略奪が横行していました。
そこへ平高望が京都から下ってきます。高望は武勇に優れていたと言われ、武装勢力同士の仲裁を進めていき、最終的にはそれらの武装勢力を支配下に置くようになります。関東の混乱を平定するのが高望の役割でしたが、高望は関東に土着し、関東の中心的な豪族となります。その子である、国香、良将、良文らも各地の豪族となり、一族で関東を支配していました。

この中の一人、国香は高校の日本史の教科書にも登場します。平将門の乱で将門から殺されるあの国香です。因みに、将門は良将の子供です。

将門の国香殺害の動機については詳しくは分かっていないのですが、一族内での所領の奪い合いが原因にあったといわれています。奪い合った所領とは良将の所領です。良将の所領ですから、その子に引き継がれるべきものなのですが、良将は将門がまだ若いうちに死んでしまいます。そのため、若くて立場の弱い将門らをよそに、良将の兄弟、国香らが良将の所領を奪ってしまったのです。それに怒った将門が国香を殺害したのではないかと言われています。935年の国香殺害によって一族内での内紛が活発化し、2年後の937年、平将門はそれに勝利し、関東の中心に立ちます。ここまでは一族内の私闘であり朝廷は関与していません。

しかし、その2年後の939年、将門は常陸国府を襲撃します。これは公的機関の襲撃であり、朝廷への反抗、すなわち、反乱を意味します。そのため朝廷も追討の部隊を送ります。その中心が平貞盛と藤原秀郷です。
平貞盛は国香の子で、約130年後に朝廷を牛耳った清盛の先祖にあたります。一方、藤原秀郷は清盛の時代に奥州を統治していた奥州藤原氏の先祖にあたります。

940年、貞盛と秀郷により将門の乱は平定されます。これによって、武家の中心的地位を得た両氏ですが、両氏ともその子の世代で没落します。平貞盛の子直方は一族の反乱者平忠常の乱の平定に失敗(⇒源氏がそれを平定)し、秀郷一族は従っていた貴族が安和の変(=摂関家による他氏排除)で没落し、それに伴って没落します。



次回は源氏の台頭、藤原純友の乱です。



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posted by new_world at 17:28| Comment(3) | TrackBack(0) | 日本の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>次回は源氏の台頭、藤原純友の乱です。

久しぶりに日本史の授業を思い出しました。
次回の講義も楽しみにしています。
Posted by danomi at 2005年09月06日 01:01
日本史・・・(-_-)
私は勉強したことないですね(*´∇`*)
文字の多さにタマゲテしまいつまみ食い程度
読みました。(笑)
Posted by マチルダ。 at 2005年09月06日 13:48
danomiさん
私も日本史は久々でした。


マチルダ。さん
勉強されたことのない人にはちょっと辛いかもしれませんね。

日本史って、世界史と違って基本的に一本ですから、分かりやすくて面白いですよ。
Posted by new_world at 2005年09月06日 22:10
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