2005年09月06日

承平天慶の乱〜武家の確立A藤原純友の乱〜

今回は清和源氏です。

清和源氏と言われるとおり、清和天皇の子孫で、その一族の租は清和天皇の孫、経基王(=源経基)です。経基王は源姓を受け、源経基となり、瀬戸内で起きた藤原純友の乱を鎮圧します。


藤原純友は、藤原家北家(主流→摂関家)の一族だったのですが、平将門同様に早くに父を失い、出世は望めませんでした。
あるとき、純友は伊予国の役人として瀬戸内の海賊を討伐したのですが、それに対する報酬をもらうことができませんでした。それに怒った純友は、討伐した海賊を率いて反乱を起こしたのです。

これは939年のことで、ちょうど、将門が常陸国府を攻撃した年です。
朝廷としては将門よりも純友が厄介でした。関東は京都から遠く、多少乱れていても直接的な問題はないのですが、瀬戸内は京都のすぐそばで、しかも、瀬戸内海は物流の中心だったからです。

西日本からの米などの輸送は多くが瀬戸内海を利用していました。米のような重い物資は陸路を使うよりも海路を使った方が大量に輸送できて便利なのです。
よって、海賊を率いてそこで反乱を起こされると京都は物が不足して大変なことになってしまいます。そのため、朝廷は一刻も早くこれを抑える必要がありました。
そこで朝廷は、反乱を起こした純友に要求通り官位を与えました。つまり、報酬を与えたのです。しかし、一時は沈静化するのですが、結局おさまらず、朝廷は軍を派遣し純友を追討することになります。純友は九州を敗走し、その後、四国に逃げますが、今の愛媛県で殺害されます。


この二つの大規模な反乱によって、朝廷における武官系下級貴族の立場が急上昇します。特に、これらの乱の鎮圧を行った、平貞盛、藤原秀郷、源経基らは各々官位を与えられますが、官位とは関係なく軍事目的で動員されることになります。



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posted by new_world at 01:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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