2007年09月13日

熊本城


熊本城天守閣先月、熊本城に行ってきました。

熊本城は、大阪城、名古屋城とともに三名城と呼ばれることもある(特に石垣が)優れたお城らしいのですが、まぁ大阪城や名古屋城に比べると知名度はいまいちでしょうね。三名城という呼び方も、熊本城の周りでしか聞かない気もするので、三名城の指定は事実だとしても、それをことさら主張しているのは熊本の人だけではないかと疑ったりもしています。まぁほかに比べると立地がいまいちですしね。権威付けが必要なのかもしれません。

ただ、熊本城は江戸時代に建てられたお城ですが、実は、厳しい実戦(籠城戦)を経験しています。

明治時代の日本最後の内乱、西南戦争です。


堀の石垣熊本城は、西南戦争のとき、鹿児島から北上してきた薩摩軍を撃退しています。まぁ撃退というか、包囲されたが篭城しきった、って感じですけどね。やはり、石垣が決め手だったようです。



もともと熊本城の役目に薩摩のお目付という面があって江戸時代から南の方に防御を固めた構造になっていて、しかも、城攻めには10倍の兵が要ると言われているのに薩摩軍は熊本城の兵隊の3〜4倍程度しかおらず、まぁどんな城でも攻め落とすのは困難だったようです。

薩摩軍は一月以上にわたって熊本城を包囲し、水攻めなども行いましたが、結局落とすことができず、その間に政府軍が到着、城東会戦という熊本市東部で行われた関ヶ原以来最大の野戦(両軍併せて約4万人)の後、熊本中心部から薩摩は撤退していくことになります。

私の実家のあたりは、城東会戦の時は薩摩軍の前線の陣地だったそうです。



と、話がそれました。


天守閣本題の熊本城ですが、熊本城を築城したのは加藤清正という名古屋出身の(秀吉の親戚の)戦国武将で、清正は築城能力、特に石垣を積む能力に長けいて、名古屋城や大阪城の石垣も清正が積んだと言われています。(もちろん、本人が積んだのではなく、彼の指揮の下、です。)

清正の石垣は、名古屋城の天守の石垣や熊本城の武者返しと呼ばれる反った石垣など、石垣の曲がり具合が綺麗だそうです。(私にはいまいちその美しさはわかりませんが・・・)

清正の話として比較的有名なのが、口の中にこぶしを入れるという話ですかね。清正は口が大きく拳が口に入ったそうで、それを聞いた(同じく口の大きかったらしい)新撰組の近藤勇が口に拳を入れて「自分も清正のようになりたい」と話していたそうです。

まぁ清正の話というよりも近藤勇の話ですけどね。

優れた武将だったそうですが、豊臣方の武将だったためか、加藤家は2代で終わっています。(関ヶ原の戦いでは西軍大将の石田三成と不仲だったため徳川方に付いていたようです。)

清正自身も比較的若くして急死しており、徳川による毒殺という噂もあるとか。


とはいえ、徳川の時代に立てられた(徳川家以外の)城で、しかも、遠方の九州の城なので、あまり大きなものは作れなかったようですが、清正の傑作の一つとして、江戸時代に三名城の一つと呼ばれるようになったそうです。




清正像と天守閣ちなみに、加藤家改易の後、熊本城には室町の管領家傍流の細川氏が入り、幕府がなくなるまでずっと熊本城にいたのですが、いまだに熊本城は“清正の城”という風に呼ばれることが多いようです。


posted by new_world at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 熊本の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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