2008年07月21日

神武東征

ご存じない方も多いかもしれませんが、日本の初代天皇である神武天皇(神話上の天皇)は日向国、今の宮崎県の生まれです。

古事記によると、神武天皇(当時皇太子)は兄の五瀬命と日本の統治について話し合い、日向を出て東に向かう事を決めたそうです。

その後、大分から瀬戸内海に入り、海沿いに移動し、近畿(大阪)に攻め込んだそうです。しかし、大阪での戦いで敗れ、兄の五瀬命が深手を負ってしまいます。神武天皇は、太陽の神(天照大神)の子孫である我々が太陽に向かって(東向き、つまり、岡山方面から大阪に向かって)攻め入ったのが間違えだったと考え、南の紀伊国(和歌山)から近畿に入る事にします。負傷した五瀬命は紀伊で亡くなってしまいます。

神武天皇は伊勢の方に回り込もうとしたのですが、途中で難破し、熊野を越えることにします。熊野の山中を八咫烏の案内で越え、大和に入ります。そして、今度や戦いに勝ち、大和を平定し、神武天皇として即位し、朝廷を築く事になります。

もちろん、神話上の話で、実際に天皇家が九州から近畿に入ったと言う証拠はありません。神武天皇自体、存在したか定かではありませんし。

ただ、神話があるからには何か理由があるはずです。どうしてこういう話になったのか、どういう学説があるのか私はよく知りませんが、そういう事を考えるのも面白いでしょうね。


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2007年10月21日

市の人口

日本に「市制」が導入された1890年頃、日本の人口は今の3分の1の約4千万人、東京市(今で言う23区?)の人口も140万人くらいだったそうです。

今とは人口の分布傾向や市の面積も違いますし、市同士の合併も多く行われていて一概に比較は出来ませんが、今とは大分違う分布をしていたようです。

その当時の人口のランキングはちょっと“昔”を垣間見れる感じがしましたね。

1位東京、2位大阪はまぁ納得できるのですが、3番は名古屋じゃなくて京都、次に名古屋、神戸、横浜と続きます。

まぁこの辺りまでは今でも日本有数の都市として栄えている都市なのですが、6位の横浜に続く都市は江戸時代を感じさせる順位となっています。(〔〕内は現在の順位)

7位 金沢〔37〕
8位 仙台〔12〕
9位 広島〔11〕
10位徳島〔86〕
11位富山〔40〕
12位鹿児島〔22〕
13位和歌山〔52〕
14位長崎〔38〕
15位福岡〔8〕
16位函館〔76〕
17位熊本〔21〕
18位岡山〔20〕
19位堺〔15〕
20位新潟〔16〕
・・・・・と、今では必ずしも大都市とは言えない都市がある一方、札幌や千葉、北九州などの現在の政令市(の元となった町)は50位にも入っていません。

たとえば、九州の都市人口を見ると、今はダントツで九州の中心である福岡よりも、薩摩藩のあった鹿児島や出島で栄えた長崎などが上位にありますし、北海道も、当時開発中だった札幌よりも江戸時代から交易で栄えていた函館が上位にあります。

1890年当時は21位に福井が入っているのですが、明治以降の近代化・国際化に乗り切れず“裏日本”という蔑称までできた日本海側の都市も、鎖国による国内中心の経済システムや加賀100万石の前田氏の影響などからか、多くが上位に入っています。

他にも、少し前まで琉球王国の王都だった首里(後に那覇市に吸収)や中継貿易を生業としていた琉球王国の要である那覇なども当時は比較的大きな都市だったようです。(まぁ19世紀には貿易を欧米の殖民都市に奪われて衰退していましたが・・・)




やはり、たかが100年とはいえ、日本もかなり変化したようですね・・・
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2005年10月24日

寺田寅彦

寺田寅彦という人物をご存知ですか?
私は短編集を1冊しか読んだことがないのであまりよく知らないのですが、この人は明治〜昭和にかけて生きた地球物理学者(東大教授)で夏目漱石の門下生だった科学者兼文学者です。

寺田寅彦の文章を初めて読んだのは、数年前、京大対策の国語の授業の時でした。

あの時は衝撃を受けましたね・・・西洋科学が入ってきたばかりの明治・大正期の人なのに、とても鋭い視点で科学をとらえていました。

その中で、もっとも印象的だったのは、寺田氏の未知の領域に関する指摘でした。

『知れば知るほど未知の部分は増えていく』

人間が認識できる未知の部分は、既知の付近の事柄でしかないので、既知の部分が増えれば増えるほど、ふくらむ風船の表面のように未知の部分との接点が増えてしまう・・・。

国語の問題なんて普通は終わったら忘れてしまうのですが、この文章は衝撃的で、凄くよく覚えています。


ヒトは“次から次に”新しい発見をするのですが、100年前には“考えもしなかった”ことで今の科学者は悩んでいるのです。

地球の人口はどんどん増え、科学者の数もどんどん増えているのに、考えるべきことは一向に減らずどんどん増えています。

以前であれば、ダビンチのような万能学者もいたのですが、今の時代では、科学者が専門化しないと手に負えないくらいに調べるべきことが増えてしまっています。

科学が進めば進むほど科学者が沢山いないといけなくなるのです。

世界の殆どは未知の領域なんでしょうね。その未知の領域は減っていっているのでしょうけど、ヒトが認識できる未知の領域は増える一方なんです。


人間の頭が進歩すればいいのですが、進化というものは凄く遅くて、そんな千年やそこらでは変わるはずもありません。

私の父親は昔からよく『人間は、決して頭はよくなっていない』と言っていました。『ギリシアの哲学者ほどの思考力を持つ人間が今の時代にいると思うか?』と。

まぁ父親は『今が昔より優れていると思うな』とか『知識が多いことを驕ってはいけない』とか言う意味で言っていたんだと思いますけど。


進化のスピードの問題もありますが、それに加えて、哲学者や科学者は結構社会ののけ者にされがちな職業ですからね・・・子孫を残せなかったのかもしれません。

今でも、科学者や哲学者は変人扱いですしね・・・。
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2005年09月06日

承平天慶の乱〜武家の確立A藤原純友の乱〜

今回は清和源氏です。

清和源氏と言われるとおり、清和天皇の子孫で、その一族の租は清和天皇の孫、経基王(=源経基)です。経基王は源姓を受け、源経基となり、瀬戸内で起きた藤原純友の乱を鎮圧します。


藤原純友は、藤原家北家(主流→摂関家)の一族だったのですが、平将門同様に早くに父を失い、出世は望めませんでした。
あるとき、純友は伊予国の役人として瀬戸内の海賊を討伐したのですが、それに対する報酬をもらうことができませんでした。それに怒った純友は、討伐した海賊を率いて反乱を起こしたのです。

これは939年のことで、ちょうど、将門が常陸国府を攻撃した年です。
朝廷としては将門よりも純友が厄介でした。関東は京都から遠く、多少乱れていても直接的な問題はないのですが、瀬戸内は京都のすぐそばで、しかも、瀬戸内海は物流の中心だったからです。

西日本からの米などの輸送は多くが瀬戸内海を利用していました。米のような重い物資は陸路を使うよりも海路を使った方が大量に輸送できて便利なのです。
よって、海賊を率いてそこで反乱を起こされると京都は物が不足して大変なことになってしまいます。そのため、朝廷は一刻も早くこれを抑える必要がありました。
そこで朝廷は、反乱を起こした純友に要求通り官位を与えました。つまり、報酬を与えたのです。しかし、一時は沈静化するのですが、結局おさまらず、朝廷は軍を派遣し純友を追討することになります。純友は九州を敗走し、その後、四国に逃げますが、今の愛媛県で殺害されます。


この二つの大規模な反乱によって、朝廷における武官系下級貴族の立場が急上昇します。特に、これらの乱の鎮圧を行った、平貞盛、藤原秀郷、源経基らは各々官位を与えられますが、官位とは関係なく軍事目的で動員されることになります。

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2005年09月05日

承平天慶の乱〜武家の確立@平将門の乱〜

久々の日本史です。
最近は何となく生物学をする気分になれず、本ばっかり読んでいます。まぁよくあることです。そこで、久々に日本史のことでも書こうかなぁと思いまして、昔のノート(と言ってもPC内ですけど)を取り出して、文章化しました(ノートはかなり簡略化されているので)。

ちょっと長いですが、興味がある方は読んでみてください。一応、“私の習った教官の説”で、これが主流かどうかは極めて怪しいのですが。

今回は平家。

平家の主流派となった桓武平氏は、平安京へ遷都した桓武天皇の子孫にあたります。
9世紀後半、桓武天皇の曾孫である高望王が平の姓を受けて混乱していた関東へ下ります。その当時、関東は朝廷の力のあまり及ばない無法地帯・戦闘地域でした。様々な武装勢力が縄張り争いをしており、武装勢力同士の戦闘が繰り返され、農民からの略奪が横行していました。
そこへ平高望が京都から下ってきます。高望は武勇に優れていたと言われ、武装勢力同士の仲裁を進めていき、最終的にはそれらの武装勢力を支配下に置くようになります。関東の混乱を平定するのが高望の役割でしたが、高望は関東に土着し、関東の中心的な豪族となります。その子である、国香、良将、良文らも各地の豪族となり、一族で関東を支配していました。

この中の一人、国香は高校の日本史の教科書にも登場します。平将門の乱で将門から殺されるあの国香です。因みに、将門は良将の子供です。

将門の国香殺害の動機については詳しくは分かっていないのですが、一族内での所領の奪い合いが原因にあったといわれています。奪い合った所領とは良将の所領です。良将の所領ですから、その子に引き継がれるべきものなのですが、良将は将門がまだ若いうちに死んでしまいます。そのため、若くて立場の弱い将門らをよそに、良将の兄弟、国香らが良将の所領を奪ってしまったのです。それに怒った将門が国香を殺害したのではないかと言われています。935年の国香殺害によって一族内での内紛が活発化し、2年後の937年、平将門はそれに勝利し、関東の中心に立ちます。ここまでは一族内の私闘であり朝廷は関与していません。

しかし、その2年後の939年、将門は常陸国府を襲撃します。これは公的機関の襲撃であり、朝廷への反抗、すなわち、反乱を意味します。そのため朝廷も追討の部隊を送ります。その中心が平貞盛と藤原秀郷です。
平貞盛は国香の子で、約130年後に朝廷を牛耳った清盛の先祖にあたります。一方、藤原秀郷は清盛の時代に奥州を統治していた奥州藤原氏の先祖にあたります。

940年、貞盛と秀郷により将門の乱は平定されます。これによって、武家の中心的地位を得た両氏ですが、両氏ともその子の世代で没落します。平貞盛の子直方は一族の反乱者平忠常の乱の平定に失敗(⇒源氏がそれを平定)し、秀郷一族は従っていた貴族が安和の変(=摂関家による他氏排除)で没落し、それに伴って没落します。



次回は源氏の台頭、藤原純友の乱です。

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2005年07月08日

世界最古の土器と印刷物

ふと、高校の日本史のことを思い出しました。

日本史で確か、世界最古がいくつか出てきたと思います。
私が覚えているのは『土器』と『印刷』です。

現存最古の土器は日本の縄文土器で、(記録上)現存最古の印刷物は奈良時代の百万塔陀羅尼経です。

印刷物の方は、推定では、朝鮮にあと半世紀早いものがあるそうです。まぁ印刷技術も朝鮮から伝わってきたのでしょうから(中国にはないんでしょうかね)・・・。

印刷技術は東洋で生まれ西洋で発達しました。

木版印刷技術を開発したのは中国で7〜8世紀、それがヨーロッパに伝わったのは15世紀初頭だと言われています。
ただ、ヨーロッパでは19世紀初頭に蒸気機関による大量印刷技術を開発するまで、かなりのスピードで印刷技術が発達して行ったようです。


印刷技術は宗教や教育に直結しますので、ヨーロッパでの需要が大きかったのかもしれません。

日本でも印刷技術は江戸時代にはかなり利用されていました。
江戸時代には“読書”が庶民まで広まったのです。

“読み・書き・そろばん”という様に、識字率が庶民の間でも上がり、“読書”という趣味が広まったのでしょう。

ただ、当時の印刷技術はまだ未熟で、大量に印刷することは出来ませんでした。
そのため、書籍は大変高価で、庶民の収入では中々買えない代物だったようです。

そのため、貸し本屋と言う職業が生まれました。

出版業者から本を買い取り、あちことに出かけて本を貸すんです。
貸本業者が農村まで出かけていたことから、農村にも字が読める人が多かったことが分かります。

いわゆる、“寺子屋”のような教育機関です。まぁ教育機関と言っても、普通は教師は1人しかいません。
ただ、そこで教える内容は“教科書”を使ったもので、大体全国で統一されていたようです。
とはいえ、寺子屋もタダではありません。お金(お金だったかどうかは分かりませんが)を払ってまで読み書きを習わせようとしたんです。それくらい教育熱心だったんですね。

何か、明治時代の義務教育に反対する農村の親たちの事が教科書には載っていましたが、本当に皆がみんな反対したわけではないようです。“義務”にしたから問題が生じたんでしょう。

子供の教育っていうのは親によって様々ですからね。

私の親は勉強をさせるような親ではありませんでしたが、私の友人の中には、大変教育熱心な親を持つ友人もいますね。可哀相です。
中学校や小学校から受験させられて、有名な高校に行って・・・まぁ東京じゃなくて京都の方に来たので、彼らの親はそこまで教育熱心じゃなかったのかも知れません。
東大の方は教育熱心な親を持つ学生がもっと多いでしょうね・・・。

噂ですが、東大の入学式への親御さんの出席率はかなり高いそうです。

さすがですね・・・

普通、大学の入学式に親なんて来ませんよね。

うちの大学なんて、入学式10分くらいで終わっちゃいましたし。友人がトイレに行っている間に終わってしまいましたよ。

それはそれで面白いんですが、何の為にスーツを着たのか分かりませんでした。
たぶん、自分が新入生だということをサークルの勧誘員にアピールする為に着ていたんだと思います。

・・・話が変わってしまいました。


まぁそんな感じです。


と、今日は前期試験初日(唯一の期間外試験)でした。出来はまぁまぁです。

来週末から試験期間突入です。

生物ばっかりですが、もう何したか覚えてないのでかなり不安です。

今更ですが授業内容が重なっていたことを祈っています。

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2005年06月29日

お稽古事と科学者

江戸時代の庶民や武士にはお稽古事が流行しました。

西洋人にとっては理解しがたい趣味も多くあったようで、日本を訪れた西洋人はその驚きを記録に残しています。

たとえば、花づくりです。
ヨーロッパの人にとって花づくりは上流階級が行うものでしたが、日本の町では貧相な長屋でも花が咲き誇っていました。
19世紀初頭に朝顔が流行した時には、町人たちはお互いの花を交配しあって珍しい花を咲かせようと必至になっていたそうです。植物の遺伝についてもちゃんと知っていたんですね。
他にも、絵画や演劇、高度な数学までもがお稽古事でした。

ただ、ここで特徴的なのは、これが決してお稽古事という趣味の領域から出ないと言うことです。これらのお稽古事はあくまで趣味であって、それを実用的に利用しようと言う考えはなかったようです。

純粋に楽しむことだけが目的なのです。

神社に高度な数式とその解法を書いた絵馬が奉納されることはあっても、それが土木や建築に利用されるようなことはありませんでしたし、珍しい朝顔作りには必死になっても、食糧の品種改良は行いませんでした。

当時の西洋人や現代の私たちからすれば、それはどう見ても“科学”なのですが、当時の人にとっては“趣味”でしかないのです。

お稽古事に医学までもが含まれていたのも興味深いところです。


なんか科学者みたいですよね。

現代の科学者の多くは自分の好奇心を満たす為に研究を行っています。特に大学の教官などはその傾向が強いです。企業の研究者は実利を伴う必要がありますが、大学の研究者は“学問的価値”というよくわからない基準で研究しています。
化石の分類をしたり、熱帯雨林のヘビの調査をしたりと、どうみても本人が楽しんでいるだけじゃないかと言う分野が結構あります(勿論、役に立つ分野も沢山あります)。

江戸時代の庶民もただ楽しむ為だけに植物の遺伝を操作していたのです。



余談ですが、お稽古事の発展を支えたのは日本独自の家元と言う仕組みだと言われています。
大きな町には各分野の家元が居り、町人などに芸事を教えていました。まぁ芸事と言っても、茶道や華道だけではなく、数学や医学、植物遺伝学も芸事ですけどね。

今でも、趣味でテニスをしたり手芸をしたりする人は結構いますね。ですが、なぜか趣味で科学をする人は殆どいません。

科学も面白いんですが・・・
全く役に立たない辺りが受けが悪い理由なのかもしれません。
それに、科学はどうしても『勉強』と言う嫌なイメージから抜け出せませんからね・・・

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2005年06月28日

戦国時代の日本人の技術

明治維新の頃の飛躍的な技術の進歩は有名ですが、案外知られていないのは戦国時代の日本人の技術力です。

当時の日本人の技術力を象徴するのが、“鉄砲の国産化”です。

中国人やインド人が出来なかった鉄砲の国産化を、日本人はほんの1年ほどで成功させました。
しかも、鹿児島で、です。

これが意味するのは、鉄砲を再現する技術が鹿児島にもあったということです。

鉄砲を作ったのは刀工でした。当時の日本の刀の技術は中国や西洋よりも優れており、そのため、鉄砲の為の金属加工が可能だったのです。

そして、一旦鉄砲の生産が開始されると、一気に全国に広がり、各地で鉄砲が作られるようになります。急速に全国に広がったと言うこともまた、それだけの技術が全国にあったことを示していると言えます。




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2005年06月27日

平安京は第3セクター

平安京がどのくらいの労働者により作られたのか、また、どれくらいの材料を必要としたのか、そして、どのような過程で作られていったのか。

これらは記録にないんです。


その理由は、平安京が第3セクターのように作られた為です。

平安京は政府の依頼により民間が労働者や材料、設計を行って作ったのです。勿論、民間とは京都の豪族のことです。朝廷は有力豪族の中から造京長官を選出し、造京長官は姻戚関係でつながる現地豪族に工事を依頼して都を作っていきました。
多くの工事が民間の手で行われた為に記録が残っていないのです。ただ、民間との共同であったからこそ、都の建設は柔軟性がありました。たとえば、町は迅速に作られましたが、宮殿などは長い時間をかけて作られました。また、政府の依頼では右京と左京がありましたが、右京は低湿地で工事がしにくかったため、無理に工事を進めず、左京だけを早急に作ったようです。
そのため、場所が決まってからたった1年で遷都は行われました。

また、大陸国家の都と異なり、平安京は城壁で囲まれていませんでした。これは日本独自といえます。
日本の町には城壁がないんです。城壁がないので、大河ドラマで簡単に義仲が入京し、あっという間に義経が登場するんです。門がないので逃げるのも簡単です。
その後のいつの時代にも、日本の街が城壁で囲まれることはなかったと思います。“城”の建設が全国で行われた戦国時代であっても、城下町はあくまで城の外でした。
一方、大陸の国家の街は普通は城壁に囲まれています。城内とは市内のことなのです。ここは日本と決定的に違います。というか、日本が珍しいのです。
日本には日本人しかいないからでしょう。

※第三セクター
『国や地方公共団体と民間企業との共同出資で設立させる事業体。主として国や地方公共団体が行うべき事業(公共セクター)に民間部門の資金や経営力など(民間セクター)を導入して官民共同で行うところから言う。』(広辞苑)


京都は日本では数少ない計画都市です。今の日本の都市の殆どが城下町や門前町などから発展した都市です。一部計画されて作られている街は結構ありますが、街全体が計画されているのは京都と札幌くらいでしょう。

京都は中国の長安を、札幌はアメリカのサンフランシスコを真似て作ったと言われていますよね。なんか、外国文化に寛容な日本人らしいです。
アメリカの都市は“開拓者”が作ったので碁盤目のものが多いそうですね。

北海道は明治時代から本格的に開拓が始まった日本にとっては最後のフロンティアでした。
開拓はアメリカの現役農相を超高給で引き抜いて行われた為、アメリカ式でした。そのため、北海道では、日本のほかの地域にはあまり見られない、酪農やビール作りなどが昔から盛んに行われています。

ただ、幾ら海外文明の好きな日本人でも、完全にアメリカナイズはされなかったようです。

日本人は稲作を諦められなかったのです。

稲は南国原産の植物なので、北海道のような年間平均気温が8度ほどしかない地域で育てるのは無理だと思われていたのですが、開拓者たちには“どうしても北海道で稲作をしたい”という思いがあったのです。

明治初期に栽培方法を工夫して稲作を実現した開拓民でしたが、毎年のように冷害にあい、水田は縮小されていきました。結局は、品種改良と機械化という長期戦になり、本格的な稲作が始まったのは戦後です。そして、他の生産地に負けない味を手に入れたのは、ほんの30年ほど前だそうです。

大変だったようですね。

でも、さすが日本人です。自分達が住む土地では、お米だけは絶対に作るんですね。






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2005年06月15日

日本語の特徴3 文語

日本語は文語が難しいようです。私も入試の時に苦しめられました。
日本語の文語が難しいのは、その基となっている日本語が平安時代のものだからです。やはり、平安時代の文学がどの時代でも模範とされていたのでしょう。

それに対し英語における文語は大体16世紀のものです。日本語の文語の半分の年齢と言えます。


そういえば、今の日本語でどのくらいの時代の人とコミュニケーションが取れるんでしょうね。
大河ドラマとか時代劇の話し方って独特ですが、あれはどのくらい本物に近いのか気になります。

『若い者の言っていることはわからん』とかいう人がいますが、それは流行の言葉の話で基本会話は普通に成立します。
私たちが想像している以上に言葉の変化は少ないのではないかと思います。
200年前の人とでも、日常会話くらいは普通に成立するんじゃないでしょうか?

私の曾祖母は101歳ですが、普通に会話が出来ます。とりあえず90年位前の言葉は簡単に理解できます。(まぁ曾祖母の話し方も時間とともに多少は変化しているでしょうけど)
何となく、曾祖母の曾祖母くらいとなら普通に話せそうな気がします。
まぁ勿論、方言がきつい地域ではそうはいかないでしょうけど・・・。

それに、「古文」と呼ばれるものは大体1000年前くらいのものですが、それでも似たところが沢山あります。
一世代が25年だとすると1000年前は40世代前ですね。
結構近くありません?

曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母の曾祖母(=39世代前)はたぶん平安時代の人です。

両親は2人、祖父母は4人、曽祖父母は8人ですので・・・40世代前の先祖の延べ人数は、2の40乗で・・・2の10乗が1024ですから、その4乗は1000000000・・・10億?
因みに、西暦1000年頃の世界人口は推定3億人だそうです。
40世代の中で、かなり重なってきているようですね・・・。



話を戻します。

日本の文語ですが、戦前は公式文書や新聞などに文語が用いられていました。大日本帝国憲法が文語で作られていることは記憶にある方も多いでしょう。

ただ、やはり、文語は難しかったようです。
昔の作家には文章を文語で書いていた人が沢山いましたが、日常会話とかけ離れている為か、間違えて使っていた作家が結構いたそうです。島崎藤村などもその1人です。

作家が間違えるくらいですから、一般人が分かるはずもないですよね。法律などの意味が分からず、勘違いする国民が沢山いたようです。

その代表的なものが、『玉音放送』です。
終戦時の玉音放送で流れた文章は文語だったんです。そのため、一部の市民には意味が正確に伝わらず、敗戦どころか逆に本土決戦を告げるものだと勘違いした人もいたそうです。

このように文語は難しいので、今では文語を使う人は殆どいません。
しかし、大学の入学試験で文語が出題されるということは、教養として文語くらい身につけておかなければならないんでしょうかね・・・

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2005年05月02日

昔の人の脚力

大河ドラマで義経が鞍馬山から頻繁に降りてきていました。
そんな近くじゃないです。電車でも30分以上かかります。続きを読む
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2005年04月15日

平正盛

侍と武士の違いって分かりますか?

江戸時代くらいになると侍=武士なのですが、平安時代ではそうでもないんです。

平正盛

清盛の祖父、平正盛といえば、源義親の乱です。
河内源氏の嫡男でもあった義親が出雲で反乱を起こし、それを(近くの)因幡の国司だった正盛が鎮圧しました。
ここで伊勢平氏が台頭したといえます。


ここで討伐される源義親はかなりの悪党です。

対馬の守として対馬を治めていたのですが、官物を横領し人民を殺害したため解任されてしまいます。
このとき、貴族の中では討伐しろという意見さえ出ていたのですが、後白河院はその父義家の顔を立ててか、義家の側近に交渉することを認めました。
ところが、義親はそれを拒否しその交渉人を殺害してしまったのです。
それで結局は隠岐に配流ということになりました。

そして、少しして父義家が死にます。

抑えを失った義親は隠岐から脱走、出雲に渡り、ここの目代を殺害してしまいます。

目代というのは官人であり、官人を殺害することは朝敵ということになります。義家の側近を殺害する分は身内の争いごとで済みますが、官人を殺害してしまうと、朝廷も討伐するしかなくなるのです。
そこで、隣国の因幡を治めていた正盛が討伐することになったのです。

正盛は義親を瞬く間に討伐してしまいます。

貴族のうちでは本当に討伐したのか疑問に思うものまで現れたほどです。そして、後に、義親の“偽物”が現れて、ちょっとした問題を起こします。
これはまた次の機会に。


ところで、話は変わりますが、武士のことを当時『最下品』と表現したそうです。
これをよく勘違いして『人殺し=最下品』と解釈する人がいるそうですが、実際は、『貴族の最下位』という意味です。
「武士」とは貴族の一番端っこで、貴族社会を“汚れ”から守る役目を担っていたのです。
「武士=汚れ」ではないのです。武士の勇猛さは高級貴族からも評価されています。それが、今昔物語などの物語などにおける武士の描写からも読み取れます。

これが侍ともつながります。

侍というのは本来、下級貴族の事を指します。
大体、官位が五〜六位の貴族です。
貴族の定義が大体五位以上ですから、貴族の一番下ということになります。
そして、この位の貴族たちの多くが、武士となったのです。

そもそも、武士⊂侍だったのが、武士≒侍になり、最終的に武士=侍となったのです。

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2005年04月11日

清盛の政治手法

今回は批判されがちな「清盛の政治手法」である「荘園」基盤と「外戚政策」です。

清盛の政治手法は古いのか?
清盛の行った荘園制・知行国依存・外戚政策などは古い貴族的手法だと批判されがちです。

この“貴族的”な手法が武士の反感を受け治承・寿永の乱へつながった、という説があります。

それに対し、源頼朝は新時代を気づいたパイオニアであり、古代勢力を打倒した正義だと言われています。
また、武士と貴族は相反するものであり、鎌倉幕府は古い貴族を新勢力である武士の手で打ち崩した象徴となっています。

しかし、実際は、鎌倉幕府も荘園と知行国に依存していたのです。
更に室町幕府も荘園と知行国が基盤でした。
また、外戚政策にいたっては徳川幕府まで続いています。

つまり、平家政権の荘園制、外戚政策が批判されるものではないといえるのです。
政治手法の点では源平と貴族は似ており、為政者として違う存在とはいえません。
勿論、武芸を生業とする武士の人間としての性格はそれまでの貴族とは異なったでしょう。しかし、源氏も平家も同じ武士ですので源氏と平家の違いはそこまでないはずなのです。

ただ、『短命』であったのは事実で、問題はあるはずです。(源氏政権も殆ど1代としかいえないので長かったわけではないですが・・・)
しかしそれは、政治手法の「古さ」ではないのです。

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平氏政権

今回は平家政権の概略をお話したいと思います。

平家関連の大きな出来事として以下の9つがあげられます。

0.2平家政権

1.保元の乱(1156年)
清盛ら後白河天皇側が勝利した戦いです。

2.平治の乱(1159年)
清盛のライバルであった河内源氏嫡流、源義朝に勝利した戦いです。これによって武家の中心は平家となりました。

3.太政大臣就任(1167年)
清盛が最高官職につきました。しかし、太政大臣は名誉職であって特に権限がなかったため、3ヶ月で辞任しました。
この頃から清盛は摂津福原に移り、大輪田泊で(後白河法皇とともに)日宋貿易を盛んに行うようになりました。

4.鹿ケ谷事件(1177年)
後白河の近臣俊寛らが平氏打倒の陰謀を企て、それを知った清盛が彼らを処罰した事件です。このとき、後白河天皇が処罰されなかったことがポイントです。

5.治承3年の政変(1179年)
後白河院幽閉し、院政を停止させました。ここで完全に平氏政権が成立したと考えることが出来ます。

6.以仁王・源頼政挙兵、源頼朝挙兵(1180年)
以仁王の令旨により源氏に平家討伐の命が下ります。それに対し平家は、福原遷都・南都焼討(大仏や興福寺)を行いました。

7.平清盛、熱病により急死(64歳)(1181年)
清盛を失った平家は急激に勢いを失います。
死因は熱病。清盛が熱病で苦しんで死んだのは南都焼き討ちで焼かれた寺や仏像のたたりとさえ言われました。

8.平家都落ち(1183年)
木曽義仲の入京で平家が都を追われる。

9.壇ノ浦で滅亡(1185年)


平家物語においては清盛=悪役で、平将門、藤原純友、源義親ら反乱を起こした人物と同じような扱いをされています。

なぜ、清盛が悪役なのでしょうか。それは幾つかの理由があります。

まず、天皇に謀反、つまり王権を否定したというものです。
治承三年の政変で院を幽閉し、福原遷都を行いました。遷都というものは天皇だけに与えられた権利であり、臣下である清盛がそれを行うことは王の権威を否定することになったのです。
また、国家鎮護のシンボルであった大仏を焼討したことも清盛が悪役となった理由だと考えられています。


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2005年04月08日

平清盛

ネタ切れなので日本史の話をしたいと思います。
私が以前受けた授業の内容です。

凄く面白い授業でしたが、ノートしか残っておらず私の表現力ではその感動が伝えられないのが残念です。

内容は教養レベルの基礎的な中世初期の政治史。
高校日本史と大して変わらない程度ですが、ご容赦ください。

興味のない方は読まなくて結構です。



0.1清盛の母

清盛の母親については様々な説がありますが、その中の一つに『白河上皇落胤説』があります。
これは、清盛の父忠盛が手柄の褒美として白河院の子を身ごもった祇園女御を授かったというものです。根拠として『平家物語』挙げられています。
ただ、平家『物語』であり、この数百年の間に面白おかしく脚色されていて根拠としては不十分です。しかも、祇園の女御は忠盛の父である正盛が使えた女御であり、年齢的にもおかしいのです。
ただ、これにより『落胤説』が否定されるわけではありません。

歴史の解釈を行う時、有効な根拠として『日記』があります。特に貴族は日記を大切にしていました。
貴族は“先例”というものを何よりの重視し、先例に基づいて政務や生活を行っていました。この“先例”を自らの子孫に残す為に貴族には日記をつける習慣があったのです。

そして、この貴族の日記などにより、忠盛の授かった女性が院の寵愛を受けた女性であったことは事実だと考えられています。それが落胤説の根拠となるわけではありませんが。

しかし、問題は“事実”ではないのです。

今の時代のようなDNA鑑定などがない時代です。「清盛には天皇の血が入っているのかもしれない」という噂が流れるだけでその効果は絶大だったのです。



親と子は顔が似ると言いますが、実際は、親子と言われればそういえば似てるかも、程度です。
源氏物語のように似た人が親戚だからと何人も出てくることなんてありえないのです。(時々いますけどね、瓜二つの親子が)

こんな感じで今後も受け売りの文章を書いていきたいと思います。ちょっと自分の意見も入れながら。

この内容は私の通っている大学のある教官の見解が基であり通説とは異なる部分もありますが、その点はご了承ください。
posted by new_world at 15:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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